添乗員上野の添乗コラム

信州の地方寺院は、なぜ全国から人々が訪れる『善光寺』になったのか?

2026年8月27日

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全国から多くの参拝者が訪れる、日本を代表する霊場の一つ「善光寺」。
長野県長野市にある善光寺には、年間約600万人もの人々が訪れるといわれています。

そんな善光寺ですが、ついにやってきましたよ。
来年2027年は、待ちに待った「善光寺御開帳」でございます!

全国にはこの日を楽しみにしている方も多いと思いますが、私も添乗員として、それはもう楽しみにしております(笑)。
ついにはワクワクが抑えきれず、普段はツアー企画に携わらない私が、自ら企画を持ち込んで「善光寺御開帳1泊2日ツアー」まで計画しているほどです。

さて、そんな善光寺御開帳。
ご開帳が開催される時には、なんと88日間で約636万も訪れるといわれています。

この人数、すごい数字なんですよ。

日本の人口を約1億2,000万人とすると、日本人の約19人に1人に相当する人数が、わずか88日間で善光寺を訪れた計算になります。
もちろん、実際には複数回参拝された方もいるでしょうから、あくまで規模感の話ですが、それにしてもすごい!

ところが、バスの車内でお客様に、

添乗員上野
添乗員上野

来年は善光寺御開帳ですね!!

とお話しすると、

お客様B
お客様B

そうだね! ぜひ行きたいね〜!

という方がいる一方で、

お客様A
お客様A

そもそも、何がそんなにすごいのかしら?

という表情をされる方もいらっしゃるわけです。

そんなとき、私は善光寺の魅力を熱量たっぷりにお話しします。

すると、最初はあまり興味のなかった方も、

お客様A
お客様A

へぇ〜! それなら行ってみたいかも!

となってくださるんですね。

これが添乗員として、なんとも嬉しい瞬間なのです。

でも、そもそもなぜ善光寺は、これほど多くの人々を惹きつけるお寺になったのでしょうか?
京都でも奈良でもなく、都から遠く離れた信州のお寺です。

調べてみると、その歴史には、一体の仏像をめぐる壮大な物語や、人々の信仰を全国へ伝えた僧侶たちの存在など、実に面白い話が隠れていました。

というわけで今回は、信州の一地方寺院が、どのようにして日本を代表する「善光寺」になったのか。

添乗員上野
添乗員上野

添乗員上野が、その歴史を少しだけ深掘りしてご案内いたします!

善光寺はなぜ有名になったのか?

善光寺が全国的に知られるようになった背景を調べていくと、大きく7つの理由が見えてきました。

「日本最古の仏像」と伝わるご本尊と、その由来を語る本田善光の伝説。
中央の有力寺院とのつながりや、時代とともに広まった阿弥陀信仰。
さらに、全国を歩いて信仰を伝えた「善光寺聖」の存在や、各地に誕生した新たな善光寺。

そして最後には、「善光寺へ行く」こと自体が、一つの文化になっていきました。
こうして並べてみると、善光寺が有名になった理由は、ご本尊のありがたさだけでは説明できないことがわかります。

では、それぞれがどのように善光寺の発展につながっていったのでしょうか。
一つずつ、歴史をひもといていきましょう!

お客様A
お客様A

わかりやすく教えてね〜

添乗員上野
添乗員上野

もちろんです!
善光寺が地方寺院から全国的な霊場になった理由を、詳しく解説していきます!

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観光地でもない「スーパー」に、なぜ観光客が集まるのか?

旅行先で、わざわざスーパーマーケットに立ち寄る人がいます。
中には、スーパーに行くこと自体を旅の楽しみにしている人も。
観光施設でもなければ、特別な体験が用意されているわけでもありません。
それなのに、なぜスーパーが観光の目的地になるのでしょうか?

次回は、全国各地のスーパーマーケットの事例から、
「観光地ではない場所が、観光地になる条件」を考えてみます。

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① 善光寺如来という特別な仏様

※イメージ(善光寺式阿弥陀三尊像)

まずは、善光寺のご本尊「一光三尊阿弥陀如来」について。
中央に阿弥陀如来、向かって右側に観世音菩薩、左側に勢至菩薩の3体が並ぶ仏様です。

実はこの仏様、ちょっと変わった特徴があるんです。

それが、3体の仏様が、一つの光背(仏様の背後にある光を表した飾り)を共有していること。

通常の阿弥陀三尊像では、それぞれに光背が設けられるものも多いのですが、善光寺如来は3体で一つ。
また印相も一般的な阿弥陀三尊像とは異なります。

この独特な姿は「善光寺式阿弥陀三尊像」と呼ばれ、全国各地で模刻像が造られるようになりました。

いわば、ひと目で「善光寺の仏様だ!」とわかる、善光寺ならではのスタイルです。
現代風に言えば、全国に広まった「善光寺ブランド」の仏様といったところでしょうか。

こうした特徴的な仏像の姿も、善光寺信仰が全国へ広がっていくうえで、重要な役割を果たしたと考えられます。

添乗員上野
添乗員上野

善光寺のご本尊は「絶対秘仏」とされており、その姿を見ることはできません。
7年に一度の御開帳では、ご本尊の代わりに、同じ姿をした「前立本尊(まえだちほんぞん)」が公開されます。

②「日本最古の仏像」というインパクト

※イメージです

さらに、善光寺には「善光寺縁起」という、お寺の成り立ちを伝える物語があります。

この物語が、また興味深いんです。

善光寺縁起によると、ご本尊は日本に仏教が伝わったとされる538年に、百済から渡ってきた仏像なのだとか。

つまり、善光寺のご本尊は「日本最古の仏像」と伝えられているわけです。

そして、なぜその仏像が都から遠く離れた信州にあるのか?

これにも、ちゃんと物語があります。

百済から日本に渡ってきた仏像は、仏教の受け入れをめぐる争いのなかで、難波の堀江に捨てられてしまいます。

そこに現れたのが、信州出身の本田善光(ほんだよしみつ)という人物。

善光は水中から仏像を拾い上げ、故郷の信州へ持ち帰ったと伝えられています。

「なるほど、だから善光寺は信州にあるのか!」
と、思わず納得してしまうような物語ですよね。

現代でも「日本一」や「日本最古」と聞くと、ちょっと興味をそそられませんか?

善光寺にも、「日本最古の仏様」という特別な由緒と、その仏様が信州へやってきた理由を説明する、わかりやすい物語があったわけです。
こうした善光寺縁起は、後に善光寺聖たちによって各地へ伝えられ、善光寺信仰を広めるうえでも重要な役割を果たしていきます。

添乗員上野
添乗員上野

この本田善光公の名前にちなんで、「善光寺」と名付けられたと伝えられています。
実は現在も、善光寺の本堂には、開祖である本田善光公が祀られているんです。
ご本尊に向かって右側に祀られていますので、善光寺を訪れた際には、ぜひ注目してみてください。

③ 中央仏教界との接続

※石清水八幡宮イメージ

10世紀ごろになると、地方の寺院のなかには、衰退したり、廃寺になったりするところも現れました。
善光寺も、そうした時代の流れと無関係ではなかったはずです。

ところが、善光寺の歴史を調べていくと、ここで興味深いつながりが見えてきます。

それが、京都にある石清水八幡宮寺との関係です。

実は、善光寺の近くにあった小谷荘という荘園は、石清水八幡宮と関わりの深い土地でした。

そして善光寺も、石清水八幡宮寺の末寺になったとされています。

「末寺」とは、簡単に言えば、大きなお寺の傘下に入ったお寺のこと。

しかも、石清水八幡宮は、伊勢神宮に次ぐ「国家第二の宗廟」とも称され、朝廷から厚い崇敬を受けた存在です。
そんな中央の有力寺社とつながりを持てたことは、地方にあった善光寺にとって、大きな意味があったのではないでしょうか。

さらに、その後の善光寺は、現在の滋賀県大津市にある園城寺、通称「三井寺」とも関係を深めていきます。
園城寺といえば、天台寺門宗の総本山として知られる名刹です。

※三井寺イメージ

つまり善光寺は、信州という地方にありながら、中央の有力寺院ともつながりを持っていたわけです。

善光寺が全国的な信仰を集めるようになった背景には、こうした中央仏教界との関係もあったのかもしれません。

④ 時代に合った阿弥陀信仰

ここで少し、当時の仏教界にも目を向けてみましょう。

平安時代の後半になると、人々の間で「極楽浄土」への関心が高まっていきます。

その背景にあったのが、「末法思想」です。
簡単に言えば、お釈迦様が亡くなって長い年月が経ち、仏教の教えが衰えて、人々が救われにくくなる時代が来るという考え方です。

そんな時代に広まったのが、阿弥陀如来への信仰でした。

阿弥陀如来は、人々を極楽浄土へ導いてくださる仏様です。

実は、10円玉でおなじみの京都・宇治の平等院鳳凰堂も、こうした時代背景のなかで誕生しました。
1052年に平等院が創建され、その翌年には阿弥陀如来を祀る鳳凰堂が建立されています。

※平等院イメージ
(平等院も善光寺と同じ三井寺の末寺だった時代がある)

つまり、当時はそれほど阿弥陀如来への信仰が広がっていたわけです。

そして善光寺のご本尊も、阿弥陀如来。

善光寺が全国へ知られていく時代は、まさに阿弥陀如来への信仰が人々の心をつかんでいく時代でもあったのです。
善光寺が全国的な信仰を集めるようになった背景には、こうした時代の流れも関係していたのではないでしょうか。

お客様A
お客様A

そもそも、釈迦如来と阿弥陀如来は何が違うのかしら。

添乗員上野
添乗員上野

釈迦如来は、現世で人々に苦しみから抜け出すための教えを説いた仏様。一方、阿弥陀如来は、死後に極楽浄土へ生まれ変わることを願う人々を救う仏様と理解してくださいね。

※厳密には、釈迦如来も来世について説き、阿弥陀如来も現世の人々を救うとされるため、あくまで入門向けの説明です。

⑤ 善光寺聖による全国への伝播

善光寺の本堂前には、
善光寺聖が全国を巡って寄付を募り、
建立したと伝わる「濡れ仏(延命地蔵尊)」もあります。

ここまで、善光寺が全国的な信仰を集める土台についてお話ししてきました。
しかし、いくら立派なご本尊があり、中央の有力寺院とのつながりがあっても、それだけで全国から参拝者が訪れるようになるわけではありません。

善光寺の存在を全国の人々に知ってもらう必要があります。

そこで重要な役割を果たしたのが、「善光寺聖(ぜんこうじひじり)」と呼ばれる人々でした。

善光寺聖の活動と出開帳は、時代を分けて説明するとわかりやすくなります。善光寺聖は平安時代から中世にかけて信仰を広め、出開帳は江戸時代に大規模化しました。

善光寺聖とは、善光寺のご本尊を模した仏像を背負い、全国各地を巡りながら善光寺の教えや物語を伝えた僧侶たちのことです。

彼らは、善光寺如来の由来やご利益を人々に語り聞かせ、信仰を広めていきました。

今のようにテレビもインターネットもない時代です。
善光寺聖の存在は、いわば全国を歩いて善光寺を宣伝する広報担当者のようなものだったのかもしれません。

そして、善光寺の名前を全国に広めたもう一つの大きな出来事が「出開帳(でがいちょう)」です。

現在、善光寺では7年に一度、前立本尊を公開する「御開帳」が行われていますよね。
実は、御開帳には善光寺で行う「居開帳」と、善光寺の外へ仏像を運んで公開する「出開帳」がありました。

特に江戸時代には、善光寺の本堂を再建するため、前立本尊を奉じて全国各地を巡り、寄付を募る大規模な出開帳が行われました。
1700年の大火で本堂が焼失した後には、約5年半をかけて全国を巡り、再建のための資金を集めています。

そして1707年、現在の善光寺本堂が完成しました。

つまり、善光寺聖が全国に信仰の種をまき、出開帳が各地の人々と善光寺のつながりをさらに深めていったと考えられるのです。

善光寺が全国から参拝者を集めるようになったのは、信州で人々が訪れるのを待っていただけではなく、自ら全国へ出向いていたことも大きかったのでしょう。

⑥ 全国に善光寺が生まれる

善光寺東海別院
(愛知県稲沢市)

善光寺聖の活動などによって、全国各地に広まっていった善光寺信仰。

実は、その影響は人々が信州の善光寺を目指すようになったことだけではありません。

なんと、全国各地に「善光寺」という名前のお寺や、善光寺如来を祀るお寺が生まれていったのです。

今でも、長野県以外に善光寺があることをご存じでしょうか?
例えば、愛知県稲沢市の善光寺東海別院や、岐阜県関市の関善光寺などが知られています。

こうしたお寺の存在からも、善光寺信仰が信州だけにとどまらず、各地へ広がっていったことがうかがえます。

鎌倉時代になると、善光寺のご本尊を模した「分身仏」が数多く造られ、それを祀る「新善光寺」が全国各地に建立されました。

なかでも興味深いのが、京都にある「新善光寺」です。
このお寺は1243年、後嵯峨天皇の勅願によって創建されたと伝えられています。

その理由が面白いんです。

当時、信州までの道のりは遠く、善光寺にお参りしたくても、簡単には行けませんでした。
そこで、都にいながら善光寺如来を拝めるように、信州のご本尊にならった仏像を造り、新たなお寺を建てたというわけです。

つまり、善光寺の信仰が全国へ広がるにつれて、「信州まで行けない人のために、地元にも善光寺を」という動きが生まれていったのです。
こうして善光寺は、信州にある一つのお寺という存在を超え、全国各地で信仰されるようになっていきました。

⑦ 「善光寺へ行く」という文化になる

こうした長い歴史を経て、善光寺は全国の人々が「一度は行ってみたい」と憧れるお寺になっていきました。

しかし、今のように新幹線や自動車があるわけではありません。
江戸時代、遠方から信州の善光寺へ行くには、何日もかけて歩かなければならず、旅費も必要でした。

それでも、人々は善光寺を目指しました。

やがて広まっていったのが、「一生に一度は善光寺参り」という考え方です。
特に江戸時代には、伊勢参りと並んで善光寺参りが庶民の間で人気を集め、各地から多くの参拝者が訪れるようになりました。

さらに、善光寺参りは単なる信仰だけでなく、旅そのものを楽しむ機会にもなっていきます。
善光寺への道中には宿場町があり、名所に立ち寄ったり、名物を味わったりする楽しみもありました。

つまり、善光寺参りは、信仰の旅であると同時に、庶民にとって憧れの旅行でもあったのです。

こうして善光寺は、単にご利益を求めて参拝するお寺から、「一生に一度は訪れたい場所」へ。
そして、善光寺へ行くこと自体が、一つの文化として人々の暮らしに根付いていったのです。

お客様A
お客様A

なるほどね〜!善光寺について、ずいぶん詳しくなったわ!
今のように全国から人々が訪れるお寺になったのは、長い歴史のなかで、いろいろな人たちが善光寺を支え、信仰を広めてきたからなのね!

添乗員上野
添乗員上野

実は善光寺には、今回ご紹介しきれなかった歴史や、知らずに通り過ぎてしまうような見どころが、まだまだたくさんあります。
そんな善光寺の奥深い魅力も、またご紹介しますね!

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  • この記事を書いた人

上野 颯

観光研究員・添乗員

愛知県一宮市生まれ、岐阜市育ち
中学生で最年少の観光案内人としてデビュー。
旅行会社やIT企業での経験を経て、公立高校商業科(観光ビジネス)の講師や自治体への観光戦略の立案、ローカル鉄道の列車企画・ツアーの企画など、多岐にわたる活動を展開しています。

「観光の未来をもっと、おもしろく」をテーマに、観光業界で働く皆さまに〝若者目線〟も入れながら役立つ情報を発信しています。


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